関ヶ原から幕末へ 【山口の場合】9

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秀元は一時輝元の養子になっていましたが、輝元に実子が生まれた為このとき別家を創設していました…ので「毛利本家」とは違う気が;

以下のコメント頂きました、ありがとうございます!
●「…島津の表現はあんな物でしょう。
朝鮮出兵の時、島津兵4800で明軍5万を追い払い、
内2万を打ち殺したとか…。
後に尾鰭が付いて3千で20万を打ち倒した…
と凄まじい事になっています。
関ヶ原の時も島津兵千五百の内、手弁当の志願兵が千程度でした。
“大怪我”ですむんですかね?…」(鹿児島)

●「…そうですよねー.
だから薩摩飛脚なんて言葉が出来たわけでしょうし.
でもそんな筋が通った強いところは気に入っています」(福島)

●「…島津軍団は戦国最強といわれていた軍だったそうです。
武術においても戦略においてもチート。
この軍団を作るために(
もちろん各武将全てとはいえないんでしょうが)島津家が施した軍法の内容にこんなのがあります。

兵の後ろに一本線を引き、それから一歩でも後退すれば切腹だそうです。つまりは前に進む以外ないのです。
薩摩隼人の戦法は攻めの一手。
守りに入っては駄目。
鉄砲を三発撃った場合一人は倒していなければ駄目。鉄砲を撃ったらすぐに白兵戦に入らなければ駄目。敵兵一人倒すのは当たり前のことだから一人目はノーカウント。
二人以上倒して当然。
敵から目を逸らせば死ぬ。
守りに入れば死ぬ。
逃げ腰になれば死ぬ。


まさしくスパルタ。鬼の島津と呼ぶだけのことはあります。
戦場から逃げれば親に斬られ、怯えれば切腹。槍働きで身を成してこそ薩摩隼人。

うん・・・・・・・・・強くなるわけですよね。」(長野)

↑●「…兵の後ろに一本線を引き、それから一歩でも後退すれば切腹という事柄は、龍造寺隆信と対決した「沖田畷の戦い」において、龍造寺軍より兵力の劣る島津家久と有馬晴信の連合軍が背水の陣をしき、島津家久は諸士に「持ち場より前進、もしくは左右にずれたり後退しても正面の敵を撃破していたら良し、それ以外は大将も士卒も死罪に処す」という苛烈な「場定
(ばさだめ)」という軍令をだしものであり、島津家の軍法ではありません。

この戦いで、島津軍は龍造寺軍に蹴散らされ
(釣り野伏せをしかけた説もあり)てもいますから、持ち場より後退していた兵は多くいたはずですが、死罪にあったという記録も無いので、「場定」は家久が兵に気合を入れるために出した発令なのでしょう。 」

●「毛利秀元は輝元のような優秀な伯父に支えられて甘やかされたお坊ちゃんではないですよ!
秀元は勇猛果敢で武勇に優れ、朝鮮の役でも輝元になりかわり毛利家の総大将として島津にも劣らない多くの武功をたてていますから。
泗川の戦いのおり、島津軍が7000と自軍より遥かに少なく数的優位と侮り油断し、緒戦で大切な食糧を島津軍に焼かれ短期決戦にせねばならずと浮き足立ち統制の取れなくなった、明、朝鮮連合軍とは違い、島津とともに朝鮮で戦い島津の強さも十分に熟知していて、さらに十倍もの兵力を持つ毛利秀元ならば、1500の少数の手勢の島津ではたとえ義弘さんでも絶対に勝てませんよ。
でも・・・泗川の戦いの時と同じく島津が7000の兵力なら・・・や、ヤバイかも・・・」

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