関ヶ原から幕末へ 【鹿児島の場合】37

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以下のコメント頂きました、有難うございます!

●「義弘公は、西軍の敗北を予想して、退き口の前の段階で怪我人や民兵を少しずつ逃がしていたために少数になっていたという説があります。
始めから人数少ないのに、更に自ら人数減らす辺り、義弘公は人数差による不利など感じていなかった可能性大アリです」

↑●「義弘様を慕い、義弘様のために遠く薩摩から集った者たちが、戦場に義弘様を残して立ち去る者など、民兵?・・・足軽だろうといるはずがありません!
この時代、どのような理由があろうと戦場から立退かすことは、その者が役に立たぬと言ってるのと同じであり、知勇にたけた義弘様が言うはずがありません!そのような記述もありませんしね。
百歩譲って言ったとしても、その命令に従う薩摩の兵などいないでしょう。「去れというなら、この場でお切りください!」と絶対言いますから。

●「>薩摩の本質
そいを薩摩隼人の“意地”っち言いもそ。
自顕流薬丸派の始祖の言葉です。
「自顕流の“意地”と言うのは
火鉢のやかんが真っ赤になって
周りの物を焼き尽くすようなものです。」
自顕流は薩摩の教育にも深い関わりのある剣術です。
鹿児島は“全力”である事が第一で、
事の成る成らぬは二の次、
生きる死ぬは思案の外です。

面白くないと思った事には指一本動かしませんが。」(鹿児島)

●「…兵数に関してですが、
開戦前には千人未満、
開戦時千五百、
突撃前七百、
堺到着時八十と言われています。

これでも追撃部隊はかなり酷い目に遭ったそうですから、
相当な攻撃だったのでしょう。…


●「…そういえば、鹿児島市では今でもこの退き口を記念して、というかその武勇を称えるためにそしてその心を受け継ぐために「妙円寺参り」という行事があります。
私の通った学校では小学校4〜6年生が10月に行う行事で簡単に言うと鹿児島市内から日置市(隣の市)の妙円寺
(正確には徳重神社)まで歩いて行く行事です。(このあたりいろいろ事情があってもめてますので詳しくはwikiなどで御調べください)
妙円寺は島津義弘公の菩提寺で伊集院駅前には義弘公の銅像があったりします。
私の小学校からそこまでは20kmほどあり、暗いうちから集合してひたすら歩きます。
また、義弘公のご苦労をしのぶため、持っていく弁当は竹の皮に包んだおにぎりと沢庵のみ、と決まっています。
(少なくとも私の小学校はそうでした。違う所もあるかもしれません)
片道歩いて帰りは列車でしたが、かなりしんどかったです。
学校によっては
(距離の関係でしょうが)往復歩く所もあるらしいです。
その時には妙円寺参りの歌というとっても長い
(確か100番くらいはありました)歌をスピーカーで流してくれましたが、今でもやっているのやら…
関ヶ原が始まってから退き口までの事をず〜っと唄っているんですが。
私の言っていた小学校は鶴丸城
(江戸時代以降の島津本城)跡地の隣にあり、校区は元武士階級の居住地だった事もあって盛大にやっていた可能性もありますが。…」

↑●「…鹿児島の場合37で、『妙円寺参りの歌確か100番くらいはありました。』ってコメントがあるんですけど、22番までですからね〜!全部覚えて歌う大会とかありましたよ。」

●「…島津の敵中突破のおり、島津陣営の中には石田三成の命令を受け目付けとして参加し、島津の敵中突破にも同道して無事に島津軍を大津まで道案内し送り届けた「入江権左衛門」という武将がいました。
その後、島津は同じく敗走する長束正家の軍勢と出会い、長束正家は遠方から来て地理不案内であろう島津のために道案内の家臣を送りました。」


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