関ヶ原から幕末へ 【鹿児島の場合】10

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以下のコメント頂きました、ありがとうございます。

●「こんにちは、今回の三成が阿呆やのくだりにはなんだか新鮮なおどろきを感じています滋賀県民です。
え?自分の案が却下されたからキレるなんて、そんなお子様をリーダーにしておくのがアホやろ?と思ってしまう私は三成脳でしょうか。うーん、実際、三成が全然阿呆に思えないんですよね
(もぐらさんに相当手加減していただいてるおかげもあるんでしょうけど)
たぶん、別に滋賀県民も三成のように精錬潔白、とかいうわけじゃなくて、むしろすごーく疑り深いんです。
よく使われる言い回しに「ええように言うてはるだけや」というのがあります。あからさまな恩売りやスタンドプレーは、一番きらわれます。そういうことすると「なんや目立ちたいだけのアホか」ってことになって信用ガタ落ちです。そういう住民相手なら、三成はあれで正解なんです。
たぶん口調ももっとくだけてたと思います。秀吉さんからもろたもん一人じめせんと上手いこと分けてやらんと、みんなアホらしいてよう働きよらんでー。みたいな。…」(滋賀)

↑●「…そもそも、生きるか死ぬか、さらには自分の国が存続するか無くなるかの時に、戦ベタで有名な三成が、五大老の中でも戦上手で知られる宇喜多氏や、常に最前線で戦いながらも生き延びている義弘候
(=戦に強い)の意見を却下した事で、西軍の勝機が減った事は間違いないと思うのですが……
実際、その時の三成の対処のあまりのまずさに、大谷氏が代わって頭を下げてる事実をみると、三成の諸国大名からの人望はとても戦の責任者には足りな過ぎでしょう。
それに、元々島津は徳川家康と鳥居元忠の間の連絡不足でやむ無く西軍に付いた訳ですし、三成自身からも、関ヶ原前の小競り合いで豊久隊を『見捨てられ』るというプチ裏切りを喰らってましたので
(勿論義弘が助けに行きました)、そりゃ本戦にやる気がおきなくても仕方ないと思いますw…」(鹿児島)

↑●「…島津が東軍に参加するつもりでいたという説は、江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって、言い訳のため創作されたものであるとの説もあります。兵力が少ないのに最も危険な伏見城に入城するのも理に適ってませんしね?
秀吉への降伏の際、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより、大隈一国と日向の一部が島津領として残った事から義弘は三成に対して恩義と親交を理由に、西軍に積極的に参加したとの説もあります。…」

↑●「…石田三成が戦下手とされたのは、北条征伐の忍城への水攻めの失策によるものですが、水攻めは豊臣秀吉が諸侯に己の力を見せ付けるためのパフォーマンスとして三成に指示したものであり、三成も最初は忍城は水攻めに不向きである事を書状で秀吉に訴えております。
忍城の水攻めの失敗により、三成嫌いの加藤や福島などが、秀吉の無理難題と知りながらも、ここぞとばかりに三成は戦下手と風評しましたが、関ヶ原において三成の軍の布陣や采配は評価が高く、小早川秀秋の裏切りにより小西隊、宇喜多隊などは早々と崩壊し敗走しましたが、石田隊は三成が無事退却するまで配下の兵達は最後まで踏ん張り主従の絆の深さを見せております。
これほど兵に愛された将を、戦下手と評価するのは早計だと思います。」

↑●「東軍が大垣城に軍を向けたことを知った三成が、先行していた島津豊久隊を置き捨て全軍を返そうとしたら、島津義弘に頑なに拒まれ三成は義弘に向かい「勝手になされよ!」と吐き捨て軍を返しました。
島津義弘は、三成に置き捨てられ退却してくる島津豊久の隊をその場で待ち
(助けには行ってません。東軍も攻撃してきませんでしたし)豊久隊と無事合流して大垣城に戻りました。
大谷吉継は三成のその行いを強くたしなめ、三成も吉継の苦言を素直に受け入れ、大垣城へと引き返してくる島津隊を出迎えました。
そもそも三成と義弘の考え方の違いなんですよ。
三成にとっては、この戦は豊臣家の威信を賭けた「義戦」であり、夜襲を行う軍は兵力が劣る場合であるので、現状兵力が東軍より勝っている西軍が実行することではなく、さらに夜襲は卑怯な行いで三成の思う「義戦」に相応しくないと判断し却下したのです。
島津義弘からすれば、夜襲とは少ない戦力で敵に大打撃を与える事のできる有効な戦法であり、兵力が少ない島津が武功を立てるには最も効果的だから進言したんです。
(でも、一番最初に夜襲を進言したのは血気盛んな宇喜多秀家なんですけどね。義弘は賛同しました。二度目は義弘が進言し却下されました。)
「義戦」を重んじる三成と、「武功」を重んじる義弘では合いいれることは絶対できなかったでしょう、義弘にしてみれば、この戦は「義戦」でもなんでもないですしね。
大谷吉継が三成に成り代わり謝罪したなどという史実は無く、他の武将に成り代わり謝罪する事は、その武将の面目を失わせる行為であるので、真義を尊ぶ大谷吉継が行う事はありえません。
吉継と三成の関係であれば、当人に面と向かって言いますし。」

●「
近江出身の大大名というと蒲生氏郷や藤堂高虎が居ますが、彼らは

「心を汲み取った上で十分な俸禄を払わなければ部下は付いてこない」

というような言葉を残していたそうです。
(ソースあやふやですみません)
商人の地でもあり、忍者や職人の里でもあった近江では、武士や大名も
こうした一種の経営感覚を持っていたって事みたいです。…」(滋賀)


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