関ヶ原から幕末へ 【江戸の場合】40

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以下のコメント頂きました、有難うございます!

●「保科正之公は史実でも家光に大変可愛がられ重用され、家光の臨終の際にも彼を気遣う言葉をかけられたことに大感激して『会津は徳川家を守護するためにあるべきであるから、もし藩主がこれに背くようなことがあったら家臣はそれに従ってはならない』という決まりを作り、これを代々忠実に守り続けた結果、会津は最後まで薩長軍に抵抗し続けたほどですから、いかに彼と会津が徳川家に対して忠実であり続けたかがわかろうというものです。
 正之公に頭をなでなでされてる若き日の福島さんこと会津さんがとっても可愛くて萌えました。
 でも、子供時代の境遇がとっても似ている
(母親が弟の方を偏愛した挙句に自分を疎んじ、色々あった挙句の果てに弟に自害を命じなければいけないはめに陥った)伊達政宗公や兄の家光と同じく、この方も後年女性不審に陥るような酷い目にあってるんですよね…。継室が、側室の娘が加賀の前田家という大家に嫁ぐのを不満に思い、その側室の娘を殺そうとしたところ、用意していた毒を自分の娘が誤って飲んで死亡したということで…。
 政宗は家光にとっては身内同然のじいやさんみたいなものだったようですが、この一連の騒動をみると、何かの呪いでもかかっていたのではと思ってしまいます(汗) まあ、戦国の世を勝ち抜いて後の世まで生き延びた方々は、色々と恨みは買っているので怨念が一種の呪いと化したとしても不思議はないのですが…。」

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