関ヶ原から幕末へ 【高知の場合】17

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以下のコメント頂きました、ありがとうございます!

●「…相撲と偽ったおびきだしの際に、山内一豊は長宗我部さんの部下だけでなく、一般の見物客まで惨殺したというのであまり人気がないんですよね、地元では(笑)
相撲場があったところは何を建てようとしても本当に人死が出るため、今でも何も建てられていません。
けれどコンクリ工事はされていたためその場に気がつかず、思いっきり相撲場の上に立っていたので必死にお地蔵さまに謝り倒しました(笑)
今は丁寧に祀られていて、とても惨劇があったところとは思えない静かな場所です。
一豊公は領主として有能だったとは疑うべくもありませんが、他県出身というだけで人気に差が出てしまうのはもはや県民性というしかありませんね。(笑)…」

●「…今でも弾圧をうけた郷士の霊を慰めるための相撲大会が毎年行われています。…」

●「…地元の土佐藩マンガも興味深く拝見させてもらってます。荒事大好きな高知人の気質のせいでしょうか、高知では山内家の人気はいまいちな気がします。特に一豊公。大した戦功もなく、また一領具足に対する仕打ちも酷く、そして他県人ですから。その代わり幕末に活躍した容堂さんは
(そこそこ)人気ですよ!高知育ち、酒飲みで豪快な性格が愛されている理由でしょうか。山内神社にも一豊公ではなく、容堂さんの銅像があります。
ただ歴史上の人物となると圧倒的に坂本竜馬が人気です。戦国時代自体に人気が薄いというか…長宗我部に注目が集まったのは、近年の戦国ブームのおかげです。そのため長宗我部関連の史跡は寂れた所が多いです(笑)」

●「…この漫画の事で先日足摺の実家に住む親に電話したら、「今でも権威や権力への畏敬は無いねえ」と笑って返されました。実家周辺地域は陸の孤島のような立地もあってか、流行の伝わりも遅く、かつての好景気の恩恵も受けられず、自分たちは自分たちで好きにやろうじゃないかな気風が未だに残っている土地です。」

●「…一豊公も苦労なさったとは思うのですが、もう少しやりようがなかったのかと悲しくなります。沈静化したとはいえその後も郷士は虐げられていますし、坂本竜馬なんかも郷士でやはりお上とは軋轢がありましたしね……」

●「…しかし、山内一豊も大幅加増とはいえ僻地の敵地へ送り込まれて統治してねと言われてさぞ参ったのではないかと。常に護衛を連れ歩いていたという話もあるようですし、直属の家臣の手前もありいきおい差別的な政策を取らざるを得なかったのかなあと同情してみたり。」

●「…大河で
(山内一豊を)取り上げたときも高知の友人はみんな冷めてました。坂本龍馬に決まったときは大フィーバーでしたけど。あの温度差の理由はこういう歴史があったからなんですねぇ。」

●「…やっぱり、我が家でも山内さん人気なかったですねぇ。
 結局妻が豪傑だった!!妻千代さんのお陰で、山内さんのお陰じゃない!という話で終わりました。(笑)
 強い奥様・お姉さん(乙女さん)大好きですね。妻が強くなければ、男は弱いものです。妻がしっかりしてるから、夫が立身出世するんです。まさしく はちきんパワー です。
 どうもね。土佐の血筋、こんな感じらしいです。。。」

●「…長宗我部さんも太閤検地の際に一領具足に気を使って9万8千石と少なめの石高を届けでしなければ、土佐国に山内一豊が来る事もなかったんでしょうけどね・・・
関ヶ原の前に功績
(あの一言と東海道に居城を持つ他の武将を東軍に味方するよう内々に説得)があった一豊ですけど、もしも家康が土佐は本当は20万石もあると知っていたら、徳川に味方したとはいえ豊臣家の直臣であった一豊に20万石も与えたりはしなかったでしょうから。
土佐が20万石もあると知って家康さんは驚いたでしょうね、ケチで有名ですから家康さんは(笑)
面白いのは、山内家がなぜか見栄を張って25万7千余石を申告したけど、幕府からは「そんなに無いだろう!」と山内家の申告石高を認めず、幕府からは土佐藩の石高は20万2千6百石余と決められてしまった(笑)」

●「高知城の山内一豊の銅像て城の外にあるんですね。
奥さんの千代さんと板垣退助の銅像は城内にあるのに?
一豊さん家にも入れてもらえないんだ。


●「
堀尾忠氏に教えてもらって、それを一豊が出しぬいたと言う説は、後の世の新井白石の「藩翰譜」が元になっています。
これは新井白石の主観が強く、おそらく新井白石が一豊の出世の仕方を快く思わず、こう評したのだ思います。
山内一豊と堀尾忠氏はお互い協議し打ち合わせていたと思われます。でなければ、堀尾忠氏は東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立てていますけど、関ヶ原では一豊と同じく長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで大して武功を挙げていないにも関わらず、戦後、前哨戦における武功を徳川家康から賞されて、出雲24万石も加増転封されましたからね。
前哨戦における武功だけで、出雲24万石も加増されるとは思えませんから、一豊の発言と他の武将の懐柔の協力者として評価されたのだと思います。
たぶん、一豊が発言した直後に「われも!」と言ったのは堀尾忠氏の可能性が高いです!」


●「山内一豊は決して舌先三寸の文弱侍では無いんですよ。
織田と朝倉との刀禰坂の戦いに参加した時に、顔の頬に敵の放った矢が突き刺さり重傷を負いながらも、郎党にその場で矢を引き抜かせて、その後も敵将である三段崎勘右衛門を討ち取っていますから、結構豪傑なんですよ。
このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢は、現在は高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されています。
それに当時、負けてもいないのに城を明け渡すという行為
(発言しただけでなく、実際に明け渡しています)は、一つ間違えれば家臣や領民からの信頼を一挙に失い見放される危険性(山内家は豊臣の直臣であり徳川の家臣では無いという反発)も大きかったので、舌先三寸の行いとは言えないのです。
武家の歴史の中で、負けても無く臣下になったわけでもないのに無条件で城を明け渡した例はほとんどない行為なのです。


●「…山之内一豊についてはうちの方でもほとんど無視か…(略)… 
小学校から「殿様は長宗我部」と習います。子供なら山内?誰それ?ああ、外から来たヒトだったっけ、で、誰?です。
大人は苦々しい顔で「山之内か・・・」という感じ。
大河で話題になるまでは奥さんの銅像は建てても、一豊の銅像だけはどこにも建てられませんでした。
(…略…)
大河で一豊が相撲事件の時泣くという演出だったそうですが、ふざけんなクソがという思いをしたヒトは私だけではないはず。…」(高知)

↑●「…坂本龍馬の巨大な銅を製作した偉大な彫塑家である「本山白雲」は、大正元年に代表作である「山内一豊」の銅像を藤並神社境内に建ててますよ。ちなみに坂本竜馬の銅像は昭和3年に建てられました。
山内一豊の銅像は二の丸の国旗掲揚台の近くにあったのですが、太平洋戦争の時に、金属回収のため撤去されてしまいました。
今建っている山内一豊の銅像は、撤去された本山白雲の原型を元にし、平成8年(1996年)9月20年に再建除幕された物です。
大河ドラマの「功名が辻」が放送されたのは2006年ですので、話題性で建てられた銅像ではありません。 」

↑●「坂本竜馬の銅像を立てた彫塑家の本山白雲といえば、この人の先祖は長宗我部家に責め滅ぼされた「本山家」なのですよ。
最初に本山氏が長宗我部家を責め滅ぼす寸前までいったのですが、当時勢力の強かった一条氏に長宗我部国親の命は助けるように言われ、渋々承諾したのち、一条氏の庇護の下、力を蓄えた長宗我部家に滅ぼされてしまったんです。
だから本山白雲が高知に一番最初に建てた銅像は、先祖を滅ぼした長宗我部家に取って代わった、山内一豊だったのかもしれませんね? 」

●「「一領具足」=「郷士」というわけでも無いんですよ。
幕末の頃には一領具足の末裔達も少なくなり、郷士は何代か前に郷士株を買い武士になった農民や町人たちが多かったですから。
郷士株を売ってしまった一領具足の末裔達は下士や農民になっています。
郷士の中で幕末に活躍できた、坂本竜馬。中岡慎太郎。武市半平太。らも一領具足の末裔では無く、坂本竜馬は商人(豪商才谷屋)から郷士になり。中岡慎太郎は大庄屋から郷士になった家柄なんです。
上士格白札まで出世した武市半平太も、5代前に農民(豪農)から郷士になってます。
一領具足ではありませんが、長宗我部の旧臣の末裔で活躍したのは吉田東洋です。吉田家は国親、元親、盛親と長宗我部三代に仕えた生粋の家柄なのです。
なぜ吉田家が上士なのかというと、吉田東洋の先祖の弟が山内一豊の先祖だからなのです。」

●「…一領具足の中には、自身の知行が減る事に不満を抱き、山内家に反抗し近隣の百姓たちに年貢を納めることを拒否させて、親族と百姓たちと共に立て篭り一揆を扇動したにも関わらず、敗戦の色が濃厚となるやいなや、首謀者であるのに共に戦った一揆の農民を早々と見捨てて雲隠れし、そのまま讃岐国に逃亡した、高石左馬助という卑怯な輩もいました。」

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